[GQ JAPAN] の最新号の特集『MEN OF THE YEAR 2011』に、ダルビッシュ有が選ばれていて、そこでのインタビューで彼が語っていた究極の目標が興味深かったので覚え書き。彼は究極の目標をこう言っていて。(→この号です。)
究極の目標は、
すべての球種をすべての球速で投げ分ける事
僕はこれまで「究極の目標」とは、自分の外側に置く方が強くいれると思ってきたんですね。自利を超えて、利他の目標を置く。自分の日常の枠組みを超えたところまでも見据えるだけなら見据えた方が、強いモチベーション・原動力がそこに働くのではないかと。自分のためだけでなく、誰かのためにがんばるというね。その上で、自分の肉体であり労力をどのように使うか、どの程度の高みまで道具・手段として磨き上げるかという順序だと思ってて。
でもこのダルビッシュの目標は、極限まで自己的というか、自分の身体能力のことを言ってるわけですね。これを読んでちょっと考えがまどろんだんよね。前段の僕のロジックでいうと彼の目標は”手段の目的化”に見えなくもない。でも一方で「世界をよくしたい」「誰かの為に役に立ちたい」というような壮大な利他的目標はそれはそれで素晴らしいと思うんだけど、そこからどうするのかが、それだけだと見えない。
ダルビッシュの言ってる「究極」っていうのは何も、規模とか達成される順番とか壮大さの意味での究極ではないんでしょう。多分、自分の状態としての究極の話をしている。そしてそれによって実現されるだろう、例えば沢村賞とか最優秀防御率とか、ああもっと言えばサイヤング賞とかワールドシリーズ制覇とか、それらすべての「結果」は、彼にとって目標とはまた違うんだろう。そういう意味で自分の身体能力のことを究極の目標に据える事は、一番逃げられないし、一番具体的なんだよね。「出来る」か「出来ない」かに完全にふるい分けられるわけだから。
自分の内側にも究極の目標をおく事。それによって自分を逃げられない状態におく事。特にスポーツは自分の身体の使い方を追求していく道っていう側面もあるわけで、ダルビッシュが言っていることはその道の最果てみたいなことだと思う。「結果としての究極」と、「状態としての究極」の両方を高次で見据えられるか。ダルビッシュの一言を読んで何となく思った事でした。
さて、自分の究極の状態って、なんでしょうか。考えよう…
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