2011/10/07

「まずやってみないとヤバいものは出来ない」:東京企画構想学舎 第2期 企画12人セミナー No.3 【猪子寿之氏】 その2

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第1期 伊藤学科のログはこちら(途中ですw)

1期・前回までのログ
  
東京企画構想学舎第二期3回目・エンジニア・クリエイターの猪子寿之氏のセミナーの後編です(前篇はコチラに)。「これからのモノづくりについて」、前篇でチームラボの作品を紹介しながら企画の流儀について話してくださった猪子氏。後編では、「日本のサバイバル手段としてのモノづくり」について、独自の日本文化考察論を交えて語ってくれました。とっても示唆にとった内容で、個人的には目鱗満載だったので、その雰囲気が少しでも伝われば。ではでは。

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 猪子寿之 (エンジニア・経営者)
1977年、徳島市出身。2001年東京大学工学部計数工学科卒業。
大学では確率・統計モデルを、大学院では自然言語処理とアートを研究。
卒業と同時に、プログラマ(アプリケーションプログラマ、ユーザーインターフェイスエンジニア、
DBエンジニア、ネットワークエンジニア)、ロボットエンジニア、数学者、建築家、
Webデザイナー、グラフィックデザイナー、CGアニメーター、編集者など、
様々な、情報化社会のものづくりのスペシャリストから構成されている集団、チームラボを結成。
主な実績として、産経デジタルのニュース・ブログポータルサイト「iza」。
『花と屍(2008)』を仏ルーヴル宮内国立装飾美術館で発表。
カイカイキキギャラリー台北にて開催された『生きる』展にて展示した映像作品『生命は生命の力で生きている』を
第54回ヴェネツィア・ビエンナーレ関連企画展へ出展。
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自分たちの文化とは何なのか?
 
前篇で猪子氏は、「日本が世界と戦って生き残っていくのは、文化依存度の高いものをテクノロジーで再構築するしかない」と言いました。その前提には、「自分たちが意識的・無意識的に関わらず依存している、文化に対する深い造詣」が前提になってきます。文化とはすべからく、”連続性”において構成されていて(はやりの言い方をするならば、ストーリーとか物語性というやつです)、今日の文化を知るには、ここに至るまでの連続性、つまり過去の文化を紐解く必要があると猪子氏は言います。文化を形式的にとらえるだけでなく、その裏側にある、その当時の世界のとらえ方や美意識に猪子氏は非常に興味があると語ります。つまりそれは、西洋文化が日本に大量流入し、モノのセンサリングの仕方や美意識まで欧米ナイズドされる以前の、世界のとらえ方ということになります。

欧米ナイズドされる前の世界のとらえ方を知るヒントとして、猪子氏は日本画を例に挙げたわけ。

平家物語絵巻より

西洋文化の大発明、「遠近法」が日本画にはない。すべてを平面的な位置関係でとらえ、まるで何枚ものレイヤーが重なって世界が構成されているような印象。猪子氏は、「遠近法による写実が日本人にはできなかった」という文化の優劣として日本画を評価するのではなく、「そもそも実際の体感としても、このように世界が見えていたのではないか」と仮説を立てている。日本画が空間を表現できていないのではなく、空間そのものを日本画的にとらえていたのではないかってこと。

そんな仮説から生まれた作品が、これ。

Case1
【百年海図巻】
大きなディスプレイに投影される映像作品。
10分一周バージョンと、100年一周バージョンがある。
(当然、100年一周バージョンは誰も見終わったことがない笑)
まず3次元空間上に波と岩を立体構築し、動作のロジックをくみ上げ、
それを論理構造で平面化して映像化している作品で、
遠近法でも、レイヤーでもない、独特の動きを表現。



「そもそも、パースペクティブ(遠近法)だって、紙という平面に描かれているわけで、実際に立体ってわけじゃない。あれを立体的だという文化依存のもとに成り立っているわけで、世の中が当時の人にどう見えていたのかの証ってわけ。ひっくり返せば、日本画だって、当時の人はあれが”世界”だったのだと思う。要するに、世界をどうとらえる文化なのかこそ、人の感覚を知るという観点で文化を紐解く上でのひとつの大きなゴールになる。」


平面で世界を表現すると、モノとモノの相対的な奥行や大きさの比などの物理的・客観的な情報のほとんどがぺちゃんこになくなります。西洋的に言えばそれは「リアルじゃない」のかもしれない。でもひるがえせば当時の日本人にとってそれらの情報は、「重要じゃなかった」のかもしれないわけです。逆に平面表現のいいところは、「ベストビューポイントが点じゃなくなる」ということがあるわけ。どこから見ても同じように見える。たとえば写真のような立体描写は端から見たり折り曲げたりすると歪んじゃいますよね。でも平面描写は歪みもないし、もっと言ってしまえば映写対象が「平面」じゃなくてもいい。上の百年海図巻も途中で折れ曲がってますけど、平面描写はそれが気にならないわけです。日本的な空間認識による映像の方が、かえって立体空間における映写には強いというわけです。(ちょっと難しいですねw)


実立体空間における平面映写作品をもうひとつご紹介。

Case2
【花と屍】
複数のディスプレイを空間に配置し、平面構成した映像を流すことによって、
まるで絵の中に入り込んだような錯覚をそこにいる人に起こさせることを狙った作品。
流れる映像は百年海図巻と同じ、立体構築→平面化で作られている。
「空間で映像を体験する」という新しい表現を狙った”実験”



「一度パースペクティブで作ってから、日本画風に押しつぶしているんだけど、これを見たエンジニアはみんな、”レイヤーは何層ひいてるんですか?”って聞いてくる。やっぱレイヤーに見えるんだろうけど、それも文化依存したものの見方なんだろうね。」


世界のとらえ方すらも文化依存の一端であり、理屈や物理で決まるものじゃないというのが猪子氏の見立て。それを作品で実証しようとしたのがこちら。


Case3
【生命は生命の力で生きている】
「書」をあえて3D空間認知し、それを回転させながら書き進めると表現にトライした”実験”。
動画として動いている最中はパースペクティブが存在する”西洋画”に見えるが、
ポーズすると平面的”日本画”に見えるという表現をすることで、
脳の中でのとらえ方一つで同じものも異なって認識されることを狙った作品。
たとえ平面でも、動いてさえいれば立体に見えるとするならば、
日本画を描いていた昔の人も、あれはあれで立体だったのでは?という
仮説・疑問を見る人に立ち上がらせることが実験の目的。




世界のとらえ方と、美意識について

世界のとらえ方は、つまり美意識に直接投影されるわけで、当時の「ヤバいもの」には見事にそれがみられる。下は、日本と西洋の””の構成の違いについての画像。




左が枯山水の石庭で、右がヴェルサイユ宮殿のお庭。一目でわかると思うけど、平面構成とパースペクティブなわけですよ。石庭は平面構成されているので、ベストビューポイントが点ではなく、線ですよね。横スクロールしながら対象を横に愛でるというのは日本独特のコンテンツディスプレーの方式だってわけで、竜安寺の石庭に至っては、どこから見ても岩が全部見えないなんていう、動きながら見る前提で作られている。かたやヴェルサイユの庭は、皇帝一人が満足すればよしっていうコンテンツとしての目的によるっていうのもあると思うのですが、ベストポイントは点で決まってます。つまり、動きながら愛でる前提で構成されてないわけです。

世界の見方が違えば、デザインも変わり、人の動線も変わる。つまり当時のコンテンツから人の生活を考察すれば、日本固有の文化依存度の高いコンテンツを構築する示唆がそこにはたくさんあると、猪子氏は言います。じゃあ、日本古来の文化依存度の高いモノのとらえ方を、現代に活かした結果世界を席巻したものってなにかというと…



そうです、任天堂のマリオ。猪子氏は個人的に宮本茂氏を激リスペクトしているわけですが、理由はこういうところにあったんですね。少ないCPUで世界を空間に見せ、その中で人物を操作している体験を実現させるために、世界で初めて「横スクロールアクション」をレイヤーデザインによって表現したわけです。任天堂の人たちが猪子氏が考えるようなことまで念頭において開発していたかはわかりませんが、横スクロールが日本人から生まれ、それが世界を席巻できたのは、文化的観点からすれば必然だったと猪子氏は言います。






スーパーマリオワールドのマップ一つとっても、「ハシゴ」と「橋」がまったく同じ、パースペクティブのない世界で横並びに描かれていて、何の注釈もなしに日本人はそれを見分けている。垂直か水平か、疑問もなく情報として受け入れられているわけです。これは非常に大和絵的なルールであり、ドラクエのマップなんかも同じだと猪子氏は言います。


加えて、西洋と日本古来の世界のとらえ方の違いとして、「自分が世界に入っているか」を挙げた猪子氏。要するに、「主体の体も含めて世界を描くのが大和絵」で、「主体の視界を描き、自分の体は入らないのが西洋画」ということ。モナリザも、モナリザを書いているダヴィンチは当然絵に入ってこないわけで、アメリカの一昔前のガンシューティングなんかも画面は自分の視界で構成されちょる。日本のゲームの多くは自分の分身である主人公もばっちり全身映り込んでるわけで、認識している世界の広さが全然違いますよね。西洋画の方が「リアル&限定的」な世界で、日本画の方が「主観的&広域」な世界なわけ。

「本来、視認識なんて五感の中で一番いい加減で、修正がかけられやすい。頭の中で合成とイメージでたくさん補完してそれを視覚だと思い込んでいる。だとしたら、どのように補完する”クセ”が強いかによって世の中の見え方がまったく違うはずで、そこってむちゃくちゃ文化依存度が高いはず。マリオとかドラクエが世界で通用したのは、日本人にしかできない世の中のとらえ方を、デジタルの力で拡張して面白く再構築できたからだと思う。

文化にはすべからく長所と短所があり、自分たちの長所をうまく使うことが、世界に対抗できるホントにヤバいものを作るときのトリガーだと猪子氏は言った。たとえばゲームが世界的に先駆者になれて、映画がそこまで行けなかったのは、日本古来の世界のセンシングの仕方を捉えられたかどうかなのではないか? 大胆な仮説かもしれないが、猪子氏が実際にその仮説に基づいて作ったこれらの作品は世界でも高い評価をされているわけです。


最後に猪子氏は自分の生活についても質問に答えてくれたんですが、やっぱり「実験」なんだなこの人の生き様は。昨年彼は、「モノのほとんどは、実はいらないんじゃないか?」という自分の仮説の下、家を捨てたらしいんです…笑 TVを捨て、服を捨て、家から出て、正真正銘のノマド生活を、自分の体を使って実験してみた猪子氏。結論は「東京スゲーよ、全然生きられる」だそうですが笑

ネットワークの向こう側だけでどこまでできるかという好奇心と、「家」や「モノ」の本質的価値を体感したいという実験意欲でここまで体を張れる。未来を考えたり、人とは異なる視座を獲得する人はやっぱり普通じゃないのかも…と思ってしまった最後のエピソードで講演おしまい!


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講義から、考えたコト

圧巻の講義でした。


自分たちのルーツから未来を見通すのは、今月号の「広告」にも書いてあった”物語・ストーリー・連続性”でコンテンツや企画、ひいては生き様を作っていく考え方とかなり近いと思ったかな。自分たちが今ここに生きて、この文化文明を享受するに至るまでのストーリーに対して、ちょっと無自覚すぎるのかもしれない。日本史のようなマクロの視点ではなく、もっと当時を生きた人ひとりの心のよりどころや世界の見方について、自分も勉強しようと思います。(前、写楽展に行ったときのことを思い出した。よかったらコチラも。)

もう一つの発見は、当初感じていたよりもはるかに猪子氏が、「日本」という言葉を重く、多様していたこと。失礼ながらもっともっと利己的にエンジニアリングを振り回している人だと思っていたんです。自分が面白いと思うもの作ってまわりが盛り上がればいいやーくらいの。でも違った。彼の視座はもっともっと大局的で、その大局的問題意識に基づいてクラフトしていました。第一期の伊藤直樹氏の授業で、企画に必要な要素として挙げられていた【着想・思いつき×信念・志の話を思い出す。ホントにヤバいものを作るには、大きな苦難を伴うわけで、それでも実現させるためには個人的な思いや大義が、必要性やビジネス力学とは別に必要になるということ。チームラボを代表として率いる猪子氏のそんな熱い部分に、社員の方々も共鳴しているのではないかなあなんて勝手に推測してました。


チームラボも共著している新刊、「フィジカルコンピューティングを”仕事”にする」も近日中に届く予定なので、それも併せて読んでみて感想書こうと思います。


とにかく、ホントにいろんな示唆を得て、アドレナリンでまくりの90分でした。楽しかった!


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次回は番組プロデューサーの吉田正樹氏。第一期企画10人セミナーにも登壇された吉田氏のTVマン的企画の考え方をご紹介できたらと思います。頑張ってカミングスーンしますのでしばしお待ちを!



(文・吉田将英)

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