そういえばもう結構日が経ってしまったけど、久々にプロ野球を見に行ったんですね。ヤクルトvsロッテ@神宮球場。試合内容は引き締まった投手戦で、ヤクルト田中の満塁からの走者一掃タイムリー3ベースで勝負アリだったわけですが。
試合ももちろん楽しんで見たんだけど、個人的にはやっぱり、応援席が面白かった!僕もその昔、高校生のときは吹奏楽部でトロンボーンを吹いていた身なので、野球部の応援とかして日に焼けまくってたこともあったんだけど、あの一体感はなんなんだろうね。スポーツ観戦に否定的な人は、「なんで他人のプレーであそこまで一喜一憂できるのか意味が分からない。だったら自分がやればいいじゃないか」という思いで冷ややかに見ている乱痴気騒ぎなのかも知れないけど、ふと思ったのは、観戦には観戦にしかない共振があるんじゃないかなってことでして。
人って、他人が自分と同じ身体の動きをしているだけで、共振感覚というか、共感したり親近感が沸いたりするらしく、”好かれたい相手と食事をしたら、水を飲むタイミングを合わせろ!”みたいな理論もまことしやかに存在している (ミラーリングというやつ)。まあそれだけ、身体行為が感情とダイレクトに紐づいていて、「この同じ動きをしているんだから、同じことを感じているハズ!」という無意識が働いて共振感覚に襲われるんでしょう。内田樹氏が、千宗屋著【茶】の中の対談で発言していたセリフがふと思い出されるけど。
ものすごくキレイにカラダを使っている人をそばで見ていると、
その体感に同期して、気持ちよくなるんです。
自分の中の体感密度も一緒に高まって、カラダの内側で何かイベントが起こる。
場を主催する力というか、私の身体のテンションの変化に合わせなさい、
体温の変化、呼吸の変化、細胞の動きの全てに反応しなさい、
というものすごい”指南力”が来たんです。
体感の指南力の凄まじく強い人に網をかけられ、
ひっぱられていかれるのって、とても気持ちいいものなんです。
内田樹
これはあくまで、茶道での立ち振る舞いにおける所作の美しさの身体性についての供述だけど、でもなにか自分の身体の外にある他人の身体の所作・動作に強烈に身をゆだねて同期させることの気持ちよさはやっぱり共通して伺えること。
そう考えると、対象を客観的に見ながら、熱狂することだけに集中し、ポーズやフリを統一して思いっきり騒げる【観戦行為】っていうのは、身体性のカタルシスが非常に高いシチュエーションだと言えるね。そしてそれは、境遇とか条件が重なれば重なるほど、暗黙裡のうちに強くなる共感なんだろうね。面白いことに、アウェイのロッテ外野席の方が声もアクションも地鳴りもでかいんです。「アウェイだから盛り上げるぞ!」みたいな共通認識が、共振を増幅させているように思う。
とまあ、別に難しいことなんか考えなくても楽しい野球観戦なんだけど、身体性っていうことでブツブツ書いてみました。”スポーツの力”と、”スポーツ観戦の力”はもしかしたら、厳密には別のカタルシスを引っ張ってきてる気がしましたとさ。
0 件のコメント:
コメントを投稿