もう昔話みたいになってしまうのかもしれないけど、「聖剣伝説2」という神ゲーがうちがまだ小学生だった時代に流行ったんです。何がこのゲームを神ゲーたらしめているかって、個人的には音楽なのですが、それ以外の構成も素晴らしく、武器を振り回しているだけでもそこにシズルがあったと思う。(音楽がどうすごいのかはwikiの“音楽”のところを読むといいです→コチラ) でもね、そんな神ゲーなのに、致命的なバグがあって。ボス戦勝利後に、そのフィールドに閉じ込められてリセットせざるを得なくなる場合が多々あったんだよね。
何度、落胆させられたことか…
今年の新入社員を自分より上の世代のおじさまたちが評するときに必ずと言っていいほど出てくる言葉に「ストレス耐性がない」ってのがありますね。すぐに泣く、あきらめる、出来そうにないことに初めからトライしない、ただのアドバイスなのに怒られたと受け取って勝手にヘコむなどなど… んで、その原因として、「理不尽な処遇に慣れてないから」だっていうわけです。
確かに、昔に比べて今は「意のままになることが多い」んだと思うのです。スポーツや自然相手の事はさておき、うちが子供の頃はゲームにまで、あんな理不尽なバグがあったわけですから。ファイナルファンタジー4のセーブデータが消えて、スイッチ入れた直後にプロローグの音楽が流れ始めた時のあの落胆っぷりと、それでもまたニューゲームを初めてしまうあの感覚は、忘れないものね。そういう意味では、今の若者たちは、理不尽な出来事に対しても自己選択的な立ち位置を取れるケースは増えているのかも知れない。
でもかといって、「今の若いやつには理不尽が足りないから、理不尽な経験をもっとさせよう!」っていうのって、なんかオカシイと思うんですよね。理不尽っていうのは、元来アンコントローラブルに降りかかってくるから理不尽なわけで、誰かが用意している時点で、それって被る側からすると腹が立ってしゃーないと思うわけです。それくらい見抜くよ、どんなに若者でもさ。だから理不尽っていうのは仕組んじゃダメでして、「人が人と、本当にいい物を作ろうとがむしゃらになる」ことによって生まれるものだと、最近は思ってます。
例が悪いかもしれないけど、ドラえもんの名台詞に、「どっちも自分が正しいと思ってるよ。戦争なんてそんなもんだよ」っていうのがあって、個人的にすごく刺さった言葉なんだけど。お互いがベストだと思っている物をぶつけ合ってる時の方が、ひずむときはひずむし、戦争みたいな理不尽なことを引き寄せる。でもそれって乗り越えないと創造されないんだと思うわけです。で、乗り越えて初めて、その時の理不尽が自分の成長に無駄ではなかったと分かるんだと思うのです。
「そりゃ、全然有意義の範疇で、理不尽のうちに入らないよ」という意見も、ごもっともだと思うけど、やっぱりおかしなことは誰かが気づいて是正されるべきだし、その工程にこそ人間の成長があると思うので、「その理不尽もお前の成長のためだから我慢しろ」とかっていってわざと苦しませるのはうちは反対なのね。本気と本気のぶつかり合いからのひずみだけが、よい理不尽なんじゃないかと、机上の空論ながらに思ったわけです。
うちは最近、幸いなことにあまり理不尽を感じずに仕事出来てます。でもそれは、手前味噌ながら、ある程度、良薬な理不尽を飲めてきたからだと思ってるのね。だから、若者に理不尽は必要かどうかっていう議論において自分は、「必要であるし、回避されるべきであって、その工程こそ有意義である」というスタンスです。
ちなみに聖剣伝説2のバグは、まあいらない理不尽ではあったけど、あの諸行無常感は、確かに立ち直りの早さをうちの中に作ったのかもしれないですね。まあ違うだろうけどw
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