茶道では、座敷に花を生ける行為について本来は、「生ける」とはいわず、「入れる」と言ってきたらしいです。一度命を絶った花に再度命を吹き込むという「生ける」ではなく、衒いや作為がなるべくないよう、自然の花の美しさをそのまま茶室に移し変えてくるという意味だろうという解釈ですね。茶の湯の花は長時間開き続けるものを好まず、その日、そのとき、その人のために入れた花をよしとし、その瞬間の花の美しさを切り取るように入れる。
それでも花の美しさは茶事の間に衰えてしおれていく。でもそれは悪いことではなく、「即今」にすべてがあるという真理を見せてくれることである。茶事は時間芸術であり、そのために南向きの茶室をしつらえ、光の演出を取り入れ、茶事の行為の音や振る舞いの絹摺れなど、多くの時間が流れている。花もそのひとつとして、ただその瞬間を慈しみなさいと。とても日本的な美意識で大好きな話なんですけどねこれ。
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たまたま読んだこの本。「集中」を妨げる要因として、【時間軸】と【自他軸】の二つで整理をしていて。
【時間軸】とはすなわち、未来や過去に意識が及ぶことだと書いてあります。「これをはずしたら試合に負けてしまう」「昨日の怪我が気になって全力が出せない」「あと2分逃げ切れれば勝利できる」などなど、過去や未来に及ぶ思考に頭が囚われてしまうと、今がおろそかになり、集中力はそがれ、緊張により体がこわばる。ただ”今”という瞬間にのみ拠って立つ意識こそ、集中というわけです。
【自他軸】も等しく、「あいつは俺より体も大きいし体力もある」「ヤツは前年度のチャンピオンだ」「相手の方が格下と言われているがこれで負けたら面子が保てない」などなど。これも一緒で、自分の努力の範疇外である相手という存在そのものにいかに意識を及ばせたところで、それは集中力を阻害する要素以外の何者でもないわけです。
何でも一緒やなあと思って。花も、仕事も、スポーツも、音楽も、人間関係も。ただ”今”に拠ってのみ行動する。未来を織り込んで計画を立てたり、過去を省みるときも、その行為をしている”今”ということに集中する。先過ぎる未来に憂鬱になってばかりいても、変えることの出来ない他者について悶々と考えても、そればっかりでは仕方ない。今、自分が、この体で何ができるかに意識を全解放するって、大事ね。そういう意味ではやっぱり、「身体性」を強く自覚できている人のほうが、スポーツ以外の事柄に関しても集中力が高いんだろうなあ。自分の体に対する自覚度の高さ。
「今、この身体、この瞬間」を大事に。そのままの自分を一旦認めた上で、何をするか。
『で、君は何がしたいの??』という、そこですよね、本当に大事なのは。
俯瞰しすぎず、達観しすぎず、客観しすぎず。今に集中!
俯瞰しすぎず、達観しすぎず、客観しすぎず。今に集中!
茶道のお花には、そんな素敵な意味があったのですね、慎ましい奥深さに驚きました。
返信削除先すぎる未来、変えることのできない他者にばかり悶々としても仕方がないというのは、正にその通りですね…えぐられます。
難しいですよね。仕方がないというとちょっと語弊があるかも知れませんが・・・ 少なくとも他者に求める内容じゃなく、自分の中でじっと持っておく感情なのかも。って、人に対してコメントしている時点でそうじゃないですけどもうw
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