2013/01/07

剣はなくともよいのです

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AM 06:21 西郷山公園から東の空


前回ポストに引き続き、体と表現について。
楽器を弾くカラダを、弾くための道具だと捉えると、”楽器の練習”といっても、ざっくりと3つのレイヤーに分けられるとうちは考えていまして。


1.道具そのものの性能をあげる練習
2.道具の使い方の練習
3.それを外的情報とグルーブさせる練習



野球でいうと、【筋トレ・ストレッチ・走り込み】 【守備走塁打撃の個人練習】 【守備連携練習・試合練習】みたいな感じでしょうか。カラダそのものも表現するための入力インターフェースっていう風に捉えてしまえば、楽器本体とカラダを分けて考える必要も、本質的にはあんまりないと思ってます(むしろ、そこが分かち難いほどに一体になるのが理想なので)。ただ、”道具そのものの性能をあげる”といったときに、個人の努力で性能が向上するのは、基本的にはカラダだけなので、要するにニアリーイコール、カラダってことになるのです。1はカラダの話。2はカラダと道具のブリッジの話。3は一体になったカラダと道具を、他の個体である他人とどうシンクするかの話。


もちろん、いい音を奏でるようにセッティングを頑張るとか機材にこだわるのはめちゃんこ大事なことですし、一流選手ほどスパイクとかバットにこだわるのと同じことだと思います。が、こと鍵盤楽器は工業製品なのでよほど金にモノを言わせない限り、そこで差をつけるのは難しく、かつ音作りなどの作り込む系の性能向上よりもカラダによる性能向上の方が個人的に、断然興味があったので、あんまり音作りに興味がないワタクシ。まあ、完全にいいわけですがw 


で。
「道具そのものの性能をあげる練習」が、かなりの部分、カラダそのものを上手に使うように、感覚で覚えさせることに占められると考えられると、楽器を触る以前にやれることがむちゃくちゃ多いっていうことになるわけです。まあもちろん、鍵盤楽器はとてもとても複雑な、いわゆるテクニックや理論によって構築される表現っていう側面もあるので、そっちも大事なんですけど、”カラダが嬉しい表現をできるかどうか”は、1.がどんだけ気持ちいい状態になってるかに、相当かかってると思って。まあ、踊れるとか、ノレるとか、そういうたぐいの感情を巻き起こせるかって感じでしょうか。

それに、インターフェイスとしてのカラダを鍛えるっていう捉え方をすると、他の事にも生きてくる。っていうか、このカラダで生きている以上、カラダの使い方の性能があがると、デスクでパソコン作業していてどんだけ肩が凝っちゃうかとか、そういうことにも関わってくるのね。


そんなことをぶつぶつ考えながら、最近は朝走ってます。カラダの重みを支える土台が、まだユルユルしているので… 最近は、ガン寒なので、決心するまでが死にそうですが、今のところ、いいペース。久しぶりにバガボンドを読み直したら、前よりも武蔵が言ってることがちょっと分かるような気がして、調子に乗っている今日この頃でした。我が剣は天地とひとつ、なんちって。

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