2011/10/25

表現のローカライズについて一考

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グローバルブランドのコミュニケーション戦略立案のときに必ず立ちはだかるのが、「その地域の文化に寄せること」と「グローバルでの決まり事を順守すること」のジレンマ。クライアントの考え方や商材カテゴリーに対する生活者の関与度や重視ポイントなどによってもまったく異なるとは思うんだけど、この事例は面白くてうまいと思います。ブランドは「スニッカーズ」


こちらがアメリカでの展開。
メッセージはシンプルに、
【You're not you when you're hungry.】
ちなみに劇中のばあさんは、
超有名なベテラン女優さんであるベティ・ホワイト。


んで、こちらが最近OAされた日本版。
言いたいことは一緒。
これはもう、エリカ様をキャスティングしたこと自体がビッグアイデア。


コアメッセージは全く同じだけど、「老いたように動けなくなる」のと「不機嫌でチームワーク不全になる」のは、受ける心象は違うのかもなあ。おなかがすいたときにどうなっちゃうかの解釈の違い。個人的にはアメリカの解釈の方が普遍的な気もするけど。でも転び方が派手すぎるとか、ちょいちょい突っ込みどころを仕込んでいるあたり、口コミ狙っているうまい感じがします。

コンテンツのたたずまいとしてのその国独自の文脈や笑いどころを、グローバルで展開しているコアメッセージを生かしながら展開させた表現としては面白いと思いました。クリエイティビティとしては新しさはないのかもしれないけど、PR効果は絶大だと思うし、キャスティング自体がアイデアになっていると思うので。

自分も今、本国vs日本ローカルのはざまに苦しんでいる案件があるので、参考にしつつ、頑張ろうっと。

2011/10/24

ノンフィクションの強さ

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飢餓に対して支援を行うNGO団体が行った”実験映像”。子供を二人、「ごはんを食べて待っててね」と言い残して待合室においていきます。でも実は、サンドイッチが入っているのは片方だけ。そんなときに何も言ってない中、子供はどんな行動をとるのか、っていう内容。

嫌な顔ひとつせずにニコニコしながらサンドイッチを分け合う子供の表情が印象的。性善、性悪どちらのスタンスで人類を見るかは個々人の勝手だけど、願わくば、みんながこの子たちの心をもって一つの星で暮らせたらいいよね。それによって飢餓が少しでもなくなっていったらいいよね。いい実験映像。

ノンフィクションの強さを改めて認識。

2011/10/23

馳せ年

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日が短くなったり、肌寒くなったり、いろいろなことで年が終わっていくことに気づくけど、自分の場合はやっぱり手帳が一番、それを感じる。あーそうかもう来年の予定がそろそろ入りだすのかーって。でも楽しみですよね、来年はここに何が書き足されていくのかと思うと。

今日はそんな手帳が届きました。3年くらい同じ手帳カバーだったのですが新調しました。思ったより赤がランドセル色で少しびっくりしましたけど笑 来年は、なんかいろいろ人生動きそうだなーって、毎年言ってる気がするんだけど、来年もそんな気がします。どんなんなるかね。

まずは、今年をしっかりとやりきること。まだまだ時間はたくさんあるので、いろいろできるね。うんうん。好きなことやろう、もっと。

2011/10/20

尊敬と憧れと崇拝

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誰かを崇拝しすぎると、何かが見えなくなるんだ。
ともいうけど、
何かが見えていないから、誰かを崇拝できてしまうんだ。
っていうことでもある気がする。
完全な人間がいない以上、何かに目を瞑らないと、崇拝なんか出来ないはず。
だから憧れは、偶像であることが多いんだな。
何かを知らない遠さ。
近づきすぎると、見たくないものまで目に入ってくるから。

返す返すも、「尊敬」と「憧れ」は違うよね。
尊敬するけど、憧れはない人はたくさん。
憧れられる人は、とっても貴重。
でも憧れは、ちょっと盲目。

なんて、ふとしたメモ。

2011/10/18

Elephant in the room

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「群盲象を評す」ということわざ。これは複数の盲人が一頭の象を触ってみて、象とは如何なる動物かと語ってみた逸話に基づいている。同じ象であっても、足を触った盲人は「木である」と言い、鼻を触れた盲人は「蛇である」と言った。「論ずる対象が同じであっても、その印象も評価も人それぞれに異なる」という意味であり、また「わずか一部分を取り上げたところで、その事象の全てがわかる訳ではない」という意味でもあり、「群盲象を模す」「群盲象を撫づ」ともいう。 
英語でも“Elephant in the room”という慣用句があり、「象が部屋にいる」ほどの誰の目にも明らかな大きな問題があるにもかかわらず、それについて誰も語ろうとせずに避けて日常を過ごすという意味。ガス・ヴァン・サント監督「エレファント」の題もその意味から来ているんだね。誰もがそこにいじめが存在していることはわかっていたのに、誰も何も手を打たなかった末の、惨劇。まあ犯人が肯定化されることはどうあれないんだけど、題名に痛烈なメッセージを込めたんだね。


エレファント デラックス版 [DVD]
ガス・ヴァン・サント



象がいるということを、勇気をもって声をあげられる人しか 、現状を変えられないのかしら。やっぱりきっかけはある一人なのかな。多分そうだな。だれかがついてきてくれることを信じてとりゃーーって。うーん、組織ってめんどくさくて難しいですね。

2011/10/11

フィードバックと自浄作用

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去年の今頃、ちょろっとだけTVに出て、自分の話姿を直視する機会があったのだけど、まあひどいひどい。一番ひどいのはやっぱり、目が泳ぐこと… ふとした瞬間にすごい勢いでフラフラ~っと目が回る。なんだこれはやばい恥ずかしいこれは撮影に緊張していたからだと信じたいと思ったものです。(そしてやっぱりアナウンサーはプロフェッショナルだと思ったことを思い出した)

物事の上達にはすべからくフィードバックが必要で、いくつかパターンがあると思うんです。行為の最中に修正する方法、他人からアドバイスをもらう方法、そして事後自分で自分を客観視すること。バンドでもそうなんですけど、一番発見があるのは間違いなく”自分で視ること”だと思う。一番しんどいし一番恥ずかしいのだけど、つまりそれは一番きいている。

プレゼンスキルは当然、場数や失敗経験の上に成り立っていくのだと思いますが、では一回一回の場数から可能な限り高い経験値を得るにはどうするかっていったら、やっぱり録音・録画なんだろうなあ。そして、つらさ倍増だけど録画の方がいい。


今度、ひとりプレリハしたときにやろうと思います。フィードバックは大事。

2011/10/07

「まずやってみないとヤバいものは出来ない」:東京企画構想学舎 第2期 企画12人セミナー No.3 【猪子寿之氏】 その2

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第1期 伊藤学科のログはこちら(途中ですw)

1期・前回までのログ
  
東京企画構想学舎第二期3回目・エンジニア・クリエイターの猪子寿之氏のセミナーの後編です(前篇はコチラに)。「これからのモノづくりについて」、前篇でチームラボの作品を紹介しながら企画の流儀について話してくださった猪子氏。後編では、「日本のサバイバル手段としてのモノづくり」について、独自の日本文化考察論を交えて語ってくれました。とっても示唆にとった内容で、個人的には目鱗満載だったので、その雰囲気が少しでも伝われば。ではでは。

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 猪子寿之 (エンジニア・経営者)
1977年、徳島市出身。2001年東京大学工学部計数工学科卒業。
大学では確率・統計モデルを、大学院では自然言語処理とアートを研究。
卒業と同時に、プログラマ(アプリケーションプログラマ、ユーザーインターフェイスエンジニア、
DBエンジニア、ネットワークエンジニア)、ロボットエンジニア、数学者、建築家、
Webデザイナー、グラフィックデザイナー、CGアニメーター、編集者など、
様々な、情報化社会のものづくりのスペシャリストから構成されている集団、チームラボを結成。
主な実績として、産経デジタルのニュース・ブログポータルサイト「iza」。
『花と屍(2008)』を仏ルーヴル宮内国立装飾美術館で発表。
カイカイキキギャラリー台北にて開催された『生きる』展にて展示した映像作品『生命は生命の力で生きている』を
第54回ヴェネツィア・ビエンナーレ関連企画展へ出展。
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自分たちの文化とは何なのか?
 
前篇で猪子氏は、「日本が世界と戦って生き残っていくのは、文化依存度の高いものをテクノロジーで再構築するしかない」と言いました。その前提には、「自分たちが意識的・無意識的に関わらず依存している、文化に対する深い造詣」が前提になってきます。文化とはすべからく、”連続性”において構成されていて(はやりの言い方をするならば、ストーリーとか物語性というやつです)、今日の文化を知るには、ここに至るまでの連続性、つまり過去の文化を紐解く必要があると猪子氏は言います。文化を形式的にとらえるだけでなく、その裏側にある、その当時の世界のとらえ方や美意識に猪子氏は非常に興味があると語ります。つまりそれは、西洋文化が日本に大量流入し、モノのセンサリングの仕方や美意識まで欧米ナイズドされる以前の、世界のとらえ方ということになります。

欧米ナイズドされる前の世界のとらえ方を知るヒントとして、猪子氏は日本画を例に挙げたわけ。

平家物語絵巻より

西洋文化の大発明、「遠近法」が日本画にはない。すべてを平面的な位置関係でとらえ、まるで何枚ものレイヤーが重なって世界が構成されているような印象。猪子氏は、「遠近法による写実が日本人にはできなかった」という文化の優劣として日本画を評価するのではなく、「そもそも実際の体感としても、このように世界が見えていたのではないか」と仮説を立てている。日本画が空間を表現できていないのではなく、空間そのものを日本画的にとらえていたのではないかってこと。

そんな仮説から生まれた作品が、これ。

Case1
【百年海図巻】
大きなディスプレイに投影される映像作品。
10分一周バージョンと、100年一周バージョンがある。
(当然、100年一周バージョンは誰も見終わったことがない笑)
まず3次元空間上に波と岩を立体構築し、動作のロジックをくみ上げ、
それを論理構造で平面化して映像化している作品で、
遠近法でも、レイヤーでもない、独特の動きを表現。



「そもそも、パースペクティブ(遠近法)だって、紙という平面に描かれているわけで、実際に立体ってわけじゃない。あれを立体的だという文化依存のもとに成り立っているわけで、世の中が当時の人にどう見えていたのかの証ってわけ。ひっくり返せば、日本画だって、当時の人はあれが”世界”だったのだと思う。要するに、世界をどうとらえる文化なのかこそ、人の感覚を知るという観点で文化を紐解く上でのひとつの大きなゴールになる。」


平面で世界を表現すると、モノとモノの相対的な奥行や大きさの比などの物理的・客観的な情報のほとんどがぺちゃんこになくなります。西洋的に言えばそれは「リアルじゃない」のかもしれない。でもひるがえせば当時の日本人にとってそれらの情報は、「重要じゃなかった」のかもしれないわけです。逆に平面表現のいいところは、「ベストビューポイントが点じゃなくなる」ということがあるわけ。どこから見ても同じように見える。たとえば写真のような立体描写は端から見たり折り曲げたりすると歪んじゃいますよね。でも平面描写は歪みもないし、もっと言ってしまえば映写対象が「平面」じゃなくてもいい。上の百年海図巻も途中で折れ曲がってますけど、平面描写はそれが気にならないわけです。日本的な空間認識による映像の方が、かえって立体空間における映写には強いというわけです。(ちょっと難しいですねw)


実立体空間における平面映写作品をもうひとつご紹介。

Case2
【花と屍】
複数のディスプレイを空間に配置し、平面構成した映像を流すことによって、
まるで絵の中に入り込んだような錯覚をそこにいる人に起こさせることを狙った作品。
流れる映像は百年海図巻と同じ、立体構築→平面化で作られている。
「空間で映像を体験する」という新しい表現を狙った”実験”



「一度パースペクティブで作ってから、日本画風に押しつぶしているんだけど、これを見たエンジニアはみんな、”レイヤーは何層ひいてるんですか?”って聞いてくる。やっぱレイヤーに見えるんだろうけど、それも文化依存したものの見方なんだろうね。」


世界のとらえ方すらも文化依存の一端であり、理屈や物理で決まるものじゃないというのが猪子氏の見立て。それを作品で実証しようとしたのがこちら。


Case3
【生命は生命の力で生きている】
「書」をあえて3D空間認知し、それを回転させながら書き進めると表現にトライした”実験”。
動画として動いている最中はパースペクティブが存在する”西洋画”に見えるが、
ポーズすると平面的”日本画”に見えるという表現をすることで、
脳の中でのとらえ方一つで同じものも異なって認識されることを狙った作品。
たとえ平面でも、動いてさえいれば立体に見えるとするならば、
日本画を描いていた昔の人も、あれはあれで立体だったのでは?という
仮説・疑問を見る人に立ち上がらせることが実験の目的。




世界のとらえ方と、美意識について

世界のとらえ方は、つまり美意識に直接投影されるわけで、当時の「ヤバいもの」には見事にそれがみられる。下は、日本と西洋の””の構成の違いについての画像。




左が枯山水の石庭で、右がヴェルサイユ宮殿のお庭。一目でわかると思うけど、平面構成とパースペクティブなわけですよ。石庭は平面構成されているので、ベストビューポイントが点ではなく、線ですよね。横スクロールしながら対象を横に愛でるというのは日本独特のコンテンツディスプレーの方式だってわけで、竜安寺の石庭に至っては、どこから見ても岩が全部見えないなんていう、動きながら見る前提で作られている。かたやヴェルサイユの庭は、皇帝一人が満足すればよしっていうコンテンツとしての目的によるっていうのもあると思うのですが、ベストポイントは点で決まってます。つまり、動きながら愛でる前提で構成されてないわけです。

世界の見方が違えば、デザインも変わり、人の動線も変わる。つまり当時のコンテンツから人の生活を考察すれば、日本固有の文化依存度の高いコンテンツを構築する示唆がそこにはたくさんあると、猪子氏は言います。じゃあ、日本古来の文化依存度の高いモノのとらえ方を、現代に活かした結果世界を席巻したものってなにかというと…



そうです、任天堂のマリオ。猪子氏は個人的に宮本茂氏を激リスペクトしているわけですが、理由はこういうところにあったんですね。少ないCPUで世界を空間に見せ、その中で人物を操作している体験を実現させるために、世界で初めて「横スクロールアクション」をレイヤーデザインによって表現したわけです。任天堂の人たちが猪子氏が考えるようなことまで念頭において開発していたかはわかりませんが、横スクロールが日本人から生まれ、それが世界を席巻できたのは、文化的観点からすれば必然だったと猪子氏は言います。






スーパーマリオワールドのマップ一つとっても、「ハシゴ」と「橋」がまったく同じ、パースペクティブのない世界で横並びに描かれていて、何の注釈もなしに日本人はそれを見分けている。垂直か水平か、疑問もなく情報として受け入れられているわけです。これは非常に大和絵的なルールであり、ドラクエのマップなんかも同じだと猪子氏は言います。


加えて、西洋と日本古来の世界のとらえ方の違いとして、「自分が世界に入っているか」を挙げた猪子氏。要するに、「主体の体も含めて世界を描くのが大和絵」で、「主体の視界を描き、自分の体は入らないのが西洋画」ということ。モナリザも、モナリザを書いているダヴィンチは当然絵に入ってこないわけで、アメリカの一昔前のガンシューティングなんかも画面は自分の視界で構成されちょる。日本のゲームの多くは自分の分身である主人公もばっちり全身映り込んでるわけで、認識している世界の広さが全然違いますよね。西洋画の方が「リアル&限定的」な世界で、日本画の方が「主観的&広域」な世界なわけ。

「本来、視認識なんて五感の中で一番いい加減で、修正がかけられやすい。頭の中で合成とイメージでたくさん補完してそれを視覚だと思い込んでいる。だとしたら、どのように補完する”クセ”が強いかによって世の中の見え方がまったく違うはずで、そこってむちゃくちゃ文化依存度が高いはず。マリオとかドラクエが世界で通用したのは、日本人にしかできない世の中のとらえ方を、デジタルの力で拡張して面白く再構築できたからだと思う。

文化にはすべからく長所と短所があり、自分たちの長所をうまく使うことが、世界に対抗できるホントにヤバいものを作るときのトリガーだと猪子氏は言った。たとえばゲームが世界的に先駆者になれて、映画がそこまで行けなかったのは、日本古来の世界のセンシングの仕方を捉えられたかどうかなのではないか? 大胆な仮説かもしれないが、猪子氏が実際にその仮説に基づいて作ったこれらの作品は世界でも高い評価をされているわけです。


最後に猪子氏は自分の生活についても質問に答えてくれたんですが、やっぱり「実験」なんだなこの人の生き様は。昨年彼は、「モノのほとんどは、実はいらないんじゃないか?」という自分の仮説の下、家を捨てたらしいんです…笑 TVを捨て、服を捨て、家から出て、正真正銘のノマド生活を、自分の体を使って実験してみた猪子氏。結論は「東京スゲーよ、全然生きられる」だそうですが笑

ネットワークの向こう側だけでどこまでできるかという好奇心と、「家」や「モノ」の本質的価値を体感したいという実験意欲でここまで体を張れる。未来を考えたり、人とは異なる視座を獲得する人はやっぱり普通じゃないのかも…と思ってしまった最後のエピソードで講演おしまい!


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講義から、考えたコト

圧巻の講義でした。


自分たちのルーツから未来を見通すのは、今月号の「広告」にも書いてあった”物語・ストーリー・連続性”でコンテンツや企画、ひいては生き様を作っていく考え方とかなり近いと思ったかな。自分たちが今ここに生きて、この文化文明を享受するに至るまでのストーリーに対して、ちょっと無自覚すぎるのかもしれない。日本史のようなマクロの視点ではなく、もっと当時を生きた人ひとりの心のよりどころや世界の見方について、自分も勉強しようと思います。(前、写楽展に行ったときのことを思い出した。よかったらコチラも。)

もう一つの発見は、当初感じていたよりもはるかに猪子氏が、「日本」という言葉を重く、多様していたこと。失礼ながらもっともっと利己的にエンジニアリングを振り回している人だと思っていたんです。自分が面白いと思うもの作ってまわりが盛り上がればいいやーくらいの。でも違った。彼の視座はもっともっと大局的で、その大局的問題意識に基づいてクラフトしていました。第一期の伊藤直樹氏の授業で、企画に必要な要素として挙げられていた【着想・思いつき×信念・志の話を思い出す。ホントにヤバいものを作るには、大きな苦難を伴うわけで、それでも実現させるためには個人的な思いや大義が、必要性やビジネス力学とは別に必要になるということ。チームラボを代表として率いる猪子氏のそんな熱い部分に、社員の方々も共鳴しているのではないかなあなんて勝手に推測してました。


チームラボも共著している新刊、「フィジカルコンピューティングを”仕事”にする」も近日中に届く予定なので、それも併せて読んでみて感想書こうと思います。


とにかく、ホントにいろんな示唆を得て、アドレナリンでまくりの90分でした。楽しかった!


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次回は番組プロデューサーの吉田正樹氏。第一期企画10人セミナーにも登壇された吉田氏のTVマン的企画の考え方をご紹介できたらと思います。頑張ってカミングスーンしますのでしばしお待ちを!



(文・吉田将英)

2011/10/06

「まずやってみないとヤバいものは出来ない」:東京企画構想学舎 第2期 企画12人セミナー No.3 【猪子寿之氏】 その1

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第1期 伊藤学科のログはこちら(途中ですw)

1期・前回までのログ
  
東京企画構想学舎第二期3回目の講師は、エンジニア・クリエイターの猪子寿之氏。エンジニアとして学生時代から数々のデジタル作品を作りながら、現在はウルトラテクノロジスト集団「チームラボ」の創業者として会社を経営する、常に新しい”ヤバいもの”を世の中にぶっ放し続ける猪子氏。「自分たちの好きなことを、自分たちの好きな形でやる」ことを第一に活躍される猪子氏の、企画やモノづくりの考え方や、これからの日本の進むべき方向について、示唆に富んだ90分でした。充実の内容でしたので、前編後編に分けて書いてみようと思います。今回はまず前編から。

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 猪子寿之 (エンジニア・経営者)
1977年、徳島市出身。2001年東京大学工学部計数工学科卒業。
大学では確率・統計モデルを、大学院では自然言語処理とアートを研究。
卒業と同時に、プログラマ(アプリケーションプログラマ、ユーザーインターフェイスエンジニア、
DBエンジニア、ネットワークエンジニア)、ロボットエンジニア、数学者、建築家、
Webデザイナー、グラフィックデザイナー、CGアニメーター、編集者など、
様々な、情報化社会のものづくりのスペシャリストから構成されている集団、チームラボを結成。
主な実績として、産経デジタルのニュース・ブログポータルサイト「iza」。
『花と屍(2008)』を仏ルーヴル宮内国立装飾美術館で発表。
カイカイキキギャラリー台北にて開催された『生きる』展にて展示した映像作品『生命は生命の力で生きている』を
第54回ヴェネツィア・ビエンナーレ関連企画展へ出展。
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チームラボの作品を見てみよう
 
「まあ、とりあえず作ってきたものを見せます」

口で説明するのが回りくどいといわんばかりに、前置きもそこそこに作品を次々に見せ始めた猪子氏。自身もエンジニアであり、何しろ「形にできなきゃ何にもならない」というモットーを講演のスタイルから地で行く形でセミナーはスタートしました。まずはこれらの作品。

Case1
【新春特別講演・「龍と牡丹」より”剣舞影絵”】
2011年1月に行われた劇俳優・早乙女太一とチームラボのコラボ公演。
早乙女さんの肉体表現を、デジタルスクリーンによって拡張させ、
リアルな舞台装置では表現できないようなスピード感やスケールで、
舞台全体を演出した作品。




Case2
【チームラボハンガー】
「ブティックで服のかけられたハンガーを手にとる」
という行為をデジタル技術によって拡張させた作品。
ハンガーを手に取ると目の前のデジタルサイネージに商品情報や着こなし例が表示される。
上がノーマルバージョン。下が「リーボックカフェ」で行われたスニーカーバージョン。


「新しい価値や体験を生み出す時に、”新しい行為”を必要としてしまうと、そこに新しいリテラシーが必要になってしまう。それではわかる人とわからない人が篩い分けられてしまう。僕の理想は、”今までと変わらない行為”を”デジタル技術によって拡張する”こと。ハンガーを手に取るという、体験者本人の行為は普段となんら変わらないのに、そこに新しい体験を作ろうと思ってやった。」


普段の行為をインターフェースとしてデザインする。一部の高リテラシーの人しかついてこれないようなエクストリームな作品を作るのではなく、あくまでも誰でも直観的にわかる作品を作る。猪子氏の企画のモットーの一つがわかりやすく出ている作品かと思います。Case1の早乙女くんの作品も、観客に3Dメガネを強いたりしていないわけで、同じことが言えるかな。”普段の行為のデジタル拡張”という意味でさらに次の事例を。




Case3
【インタラクティブテーブル】
リーボックカフェに展示されたもう一つの作品。
「テーブルのコースターを手グセでいじる女の子」をみて思いついたらしい。
コースターを置く位置や、それぞれのコースターの相対的な位置関係によって、
テーブルのグラフィックが変化する作品。
”何気ない普段の行為が、デジタルでちょっと楽しくなれば”という
猪子氏の狙いを、遊びの感覚で作品にしたもの。




「モノを作るときに考えたことを、なるべく抽象化して概念にしていく。抽象化することによって、他のまったく違うジャンルやプロダクトのモノづくりをするときにも応用が利く。サイエンスな考え方なのかもしれない。」


計数工学科だったというバックグラウンドも関係しているかもしれないが、猪子氏の企画の考え方は、”成功の法則をサイエンスの視点をもって抽象化する”マインドと、”理屈ではない、なんだか気持ちいい・楽しいことを見つける、考える”という右脳のレセプターが両立しているように感じたんよね。右脳でセンサリングして、右脳で構想して、左脳でくみ上げて、左脳で法則化する。そのバランスが絶妙なんだろうな。それに加えてもう一つ、面白い極論を展開されてました。


「今までのプロダクトは、プロダクトそのものを良くしようと頑張ってきた。でもこれからは、プロダクトそのものはあくまでもインターフェースでしかなく、ネットワークの向こう側にあるデジタル体験を良くしようとする方がはるかに可能性があると思う。」


プロダクトは、「物理世界」と「ネットワークの向こう側」を結ぶゲートでしかない… 人間は物理世界の中にしか存在できない生き物なので、それをネットワークの向こう側の無限の可能性に、いかに無理なく気持ちよくいざなえるかが、インターフェースとしてのプロダクトの目指すべき性能なのではないかという猪子氏。「人間がネットワークの向こう側に生きれれば全部解決なんだけどね」と、マトリックスしかり攻殻機動隊しかりな世界観も語ってました。”人の何気ない習性”を”面白いインターフェースとしてのプロダクト”によって、未知の体験に引きずり込んだ作品をもう一つ。



Case4
【チームラボボール】
店内照明をインターフェースに、そこに新しいグルーブを生み出そうとした実験作
ボールには通信機能やスピーカーが内臓され、触るとそれをセンシングして色や音が変化。
それぞれのボールの反応同士も同期しており、
部屋全体のひとりひとりのバラバラな行動が一つの音楽を生み出す。
クラブでの実験を経て、音楽イベントでも展開した。

「音楽イベントはこれまで、プレイヤーとオーディエンスにパッカリ分かれてしまってて、そこを変えたいと思っていた。そしたらEXILEのライブDVDで黒いボールをオーディエンスの中に入れると、人がなぜか必死に触って突き上げているのを見て、”人はボールがボヨンボヨン飛んでくると触るんだ!”ということに気付いた。そこにさらにデジタルを乗っけて、会場全体が参加して一つのものを作るという実験をやってみた。」

新しいリテラシーを強い、新しい体験に無理やり引き入れるのではなく、思わずやってしまう人の無意識の習性にうまく入り込み、デジタルによってリブーストさせる。アフォーダンス的視点で世の中を観察することが、猪子氏の企画のタネの大きな要素なのかもしれないですね。その意識の向こう側には、”みんなを楽しませたい”という意識があるのかもしれない。「わかる人だけわかればいいさ」という、技術力を持ったエンジニアにありがちな発想とはむしろ逆の、どうやったら大勢の人を気持ちよくできるヤバいモノができるかという点に猪子氏の目は向いているのかも。”みんな”を意識した作品をさらに何点かご紹介。

Case5
「自分の書いた絵を人に楽しく見せる」という行為のハードルを下げたかったという
猪子氏の思いから発生した作品。
日テレやワコムなどのウェブサイトのコンテンツとして公開している。
線・スタンプ・動くアイコンなどを画面上に自由に配置し、
それらが決まった動きの中で有機的に反応、
カオスな動きを反復したり、それらから音楽が発生する。
誰でも簡単に面白い状況が作成でき、思わず人に見せたくなるという、
当初の狙いを形にすることができた”実験作品”。



「”表現”とか”デザインの仕事”って、20世紀ではマスが前提で、完成度が高いものを、職人が完璧に作り上げるというもんだったと思う。でもホントは人って、誰でも自分自身でもっと表現したいと思っていると思うし、デジタルやネットワークの力でそれが可能になってる。プリクラが写真を、ブログが文筆を、ボーカロイドが作曲を簡単にしたみたいに、絵をかくことを簡単にしたかった。」

猪子氏はニッチなある特定の人々を見ているわけではなく、あくまでも日本や社会といった大きなフィールドを見て企画を練っている人なんやなあと感じたわけです。そのためには、ある程度直観的に、フィジカルに、非言語的に理解できるもんじゃないといけない。非言語であることと、情報化社会と、一見矛盾するようにも感じる二つの概念の関係について、以下のように言及しておりました。

「情報化社会だからこそ、本当にヤバいもんは非言語から出てくると思う。言語化される領域は、共有されるスピードが高すぎて、競争優位性の必要十分条件にならないんだよね。ニュースキャスターよりも地元の人のツイートのほうが早い世界でしょ?言葉の壁だってだれかが訳せばそれまでのもの。日本が世界と渡り合っていくうえで、言語化される領域はしんどいよ。」


日本の”生き残り方”について

日本が世界と戦えるフィールドとして猪子氏は以下のようなレベルを見せてくれた。

【話してよくわかる】
【写真でみればわかる】
【動画で見ればわかる】
【体験してみればわかる】

下にいけばいくほど戦う余地があると猪子氏は言う。本当に突き抜けたヤバいものを作るには、体験のフィールドに入っていく必要があり、新しい体験が残されている可能性は、ネットワークの向こう側の方が大きいというわけです。ではなぜ、ネットワークの向こう側の方が可能性が残されているのか。デジタルテクノロジーについて猪子氏は以下のように言及します。


「デジタルテクノロジーって自然科学とは根本的に違うわけ。だって自然科学の法則に縛られなくていいんだから。でもデジタルテクノロジーの起源は、自然科学の応用から始まっているから、客観的現象や普遍的法則を無意識のうちになぞっちゃうんだよね。つまり、物理空間の法則に縛られちゃう。」


「でも冷静に考えれば、デジタルテクノロジーは自然科学に基づく必要なんかないし、それがないから可能性が物理空間より大きいわけ。だから、物理空間の客観的現象に基づくんじゃなくて、”人の心や感情の中にある主観的な法則”に基づいて作れば、自然現象をまねなくても人は受け入れてくれるよ。」


「客観的自然現象」ではなく、「主観的な人の行動・心理」を。人は主観で始まって主観に終わるという、ユング的な思想を持って人を観察することが猪子氏の人間論なのかもしれないですね。たとえばグーグルのページランクについても、”人は好きなページのリンクを自分のブログに貼りがちである”という主観的な行動を、”計数によってランク付けし検索可能対象にする”というテクノロジーによる拡張によりサービス化。さらに”人はランキングを気にする”というこれまた主観的行動と組み合わせることによって品質向上無限ループ構造を作ったというわけ。主観的行動と、法則化と、テクノロジーによる拡張。この3ステップがあるっていうわけです。

主観で始まり主観で終わるのが人間だとしたら、客観的思考や論理だけでは絶対に答えが出ないというのが、猪子氏の企画の流儀。だとしたら、すべての新しいことは「やってみないとわからない」ということです。猪子氏が【実験】を大事にするのはこういうことなんですね。何しろプロトタイプを作って実際に人の中に放り込んでみる。予想のつかないことを作ろうとしているのだから、やってみる前の予想はたかが知れている。だからこそ、実験に必要な”プロトタイプ”を手を動かして作れる人の時代が来るのだというのが彼の持論になるのね。

そのうえで、日本が生き残っていくうえでのキーワードとして猪子氏は”文化依存度”という言葉をだしました。”量”や”規模”の経済では中国・ブラジル・インドなどの高度経済成長国家には勝てないし、生産拠点としての存在では人件費の安い発展途上国には勝てない。資源にも国土にも乏しい日本は、これからどうやっていけばいいのか… 猪子氏は「文化依存度の高いものを作りまくるしかない」と言います。

「文化依存度って要するに、”そこに生きてきた人に共有されているノリとか空気”ってこと。それが高いっていうことは、面白いとかカッコいいの理由が言語で説明できないってことだし、他の文化で生きてきた人間には絶対に思いつかないってこと。日本人は、日本の文化をもう一度よく見つめなおして、自分がどの文化に知らず知らずのうちに依存しているのから自覚的になったほうがいいんじゃない?で、そのうえで、テクノロジーによってそれを再定義・拡張して、新しい体験を作ってあげること。唯一ジャパンが生き残る産業はこれしかないと思うよ。」

文化依存度の高い、ヤバいもの… 自分たちの文化に対する理解を深めて、技術力を持ってモノを作っていくということとは具体的にどういうことなのか? 前編はここまでにして、後編ではそれらについてご紹介しようと思います。


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講義から、考えたコト

猪子氏の話す姿をみて感じたのは、「クラフトマン」としての彼と、「サイエンティスト」としての彼の両面でしたね。

決して饒舌ではなく、若干話すのが面倒くさそうな印象の猪子氏。能書きではなく、実際に作って見せて、体験させた方がいかに自分が本当に届けたい価値が届くか熟知しているんだと思う。言語を超えて非言語で体験をさせるというクラフトマンとしての企画スタンスが講演そのものにも出ていたと思うん。いいから作ってみる。いいからやってみる。いいから動いてみる。そしてどんどん失敗すればいい。サイエンティストというと理屈コネコネしてややこしそうな印象を受ける人もいるかもしれないけど、成功の何百倍も失敗しているわけだからね。そういう意味では、クラフトマンもサイエンティスト根っこの部分は一緒なのかもしれない。【企画】という単語はほとんど使わずに【実験】という言葉で自分の作品を説明する彼が印象的でした。

その一方でサイエンティストっぽい側面として感じたのは、「抽象化」のくだり。事象を抽象化し、概念にして応用するというのは、数学の定理を探すような、あるいはフクロウの羽の原理を電車のパンタグラフに活かすような、科学的側面を感じたんです。僕が尊敬する企画者の一人の佐藤雅彦氏の言葉でいう、「ルール」と近いとらえ方だと思うんだけど、法則を発見し、反復応用していくことで、ジャンルをオーバーラップして新しいことを作っていく。それによって、単発の企画を毎回ゼロから考えるのではなく、自分という脳みそにナレッジの闇鍋を煮て作っていくようなスタイル。これがしっかり取れれば、人生のすべての経験が企画の糧になるんだと思う。流儀を持つってそういうことなんだろうけど、猪子氏の、時に奇抜で奇妙だと思われる言動行動は、彼なりのルールやスタンスにのっとった確固たるもんなんやなあと気づけた講義でした。
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次回は後編。”文化依存度の高いモノづくり”と”日本が世界とこれからどう戦っていくか”について。いちエンジニアのマインドをはるかに超えた、視野と展望の広さと、企画力のヤバさを痛感した後編でございます。カミングスーンになるように頑張りますので、しばしお待ちを…



(文・吉田将英)
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