前回までのログ
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SPBS作家・ライター養成塾 夏期集中講座
SHIBUYA PUBLISHING BOOKSELLERS主催の添削通信講座、
「SPBS作家・ライター養成講座」の夏期講習版ということで、
計4回の授業に文章で生きて行くうえで必要なノウハウを
ぐっと凝縮した、夏期のちょっとした集中講座です。
SPBS作家・ライター講座の第4回目その1。第3回終了後に出ました宿題、【特定の実在する雑誌のある号を選び、雑誌記事を書いてみよう】という1,000字。添削を通して、実践的目線での文章ライティング技術の講座になりました。添削ということで、もうここは思い切って、赤字を入れられまくった自分の原稿をさらすのが一番分かりやすいと思いますので、まずこのエントリーで赤いれ前の原文を載せて、次回投稿でそれがどのように変わったか、お見せできたらなんて思ってます。では!
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SPBS作家・ライター養成塾 夏期集中講座 その4-1 (9/12)
-今回の先生方-
阿久根佐和子/あくね・さわこ
鹿児島県生まれ。東京大学文学部英語英米文学科卒業。
『BRUTUS』『Casa BRUTUS』『GQ』『coyote』などの雑誌に執筆するほか、
英語文学の翻訳や、荒木経惟『いい顔してる人』など
書籍構成等も手がける。
河尻亨一/かわじり・こういち
銀河ライター主宰。元『広告批評』編集長。
銀河ライター主宰。元『広告批評』編集長。
現在は雑誌『リバティーンズ』や日経トレンディネット『This Is Hit!』等の連載などのほか、
書籍編集、イベント企画、広告など幅広く手がける。
自分が出した、【雑誌記事】1,000字の原文
すげー恥ずかしいのは重々承知の上で、自分が書いた雑誌記事を下記載せます。想定掲載先は、「BRUTUS」2009年12月1日号の”泣ける映画”特集です。果たして、BRUTUSが持つたたずまいに似つかわしい記事になっているのかどうか… ただここ自体がブログという、異なるたたずまいの場であることはあしからず。
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こうやって読み返してみると自分でいろいろと反省がありますが・・・ 長くなってしまうので、添削結果は次のエントリーにてご紹介いたします。中々自分の文章にしっかりと赤を入れてくれるなんて体験は大人になってからでは中々出来ないので、新鮮だったし。とてもためになったのです。ということで、細々とお楽しみに。
すげー恥ずかしいのは重々承知の上で、自分が書いた雑誌記事を下記載せます。想定掲載先は、「BRUTUS」2009年12月1日号の”泣ける映画”特集です。果たして、BRUTUSが持つたたずまいに似つかわしい記事になっているのかどうか… ただここ自体がブログという、異なるたたずまいの場であることはあしからず。
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「泣ける映画の“こちら”と“あちら”」
西洋史最大の哲学者、アリストテレス。著作である文学理論の名著『詩学』の中で彼は、悲劇・抒情詩・叙事詩の「詩の三大区分」の中で悲劇を文学の最高形態としている。その後、悲劇は劇文学へと発展を遂げ、現在のハリウッドや映画産業そのものにまで発展しているのだから、その先見の明には恐れ入る。
何ゆえ、アリストテレスは悲劇を文学の最高形態としたのか。彼は悲劇の効用を「憐れみ(エレオス)と恐れ(ボボス)を通じて、このような諸感情の浄化(カタルシス)を達成する」と記している。なにやら小難しい感じだが、要するに「ネガティブな感情からの浄化」効用が悲劇にはあり、それは文学が人にもたらす感情の揺らぎの中で最もスッキリできるものなのだということなのかもしれない。
さて現代。人はたとえば、失意のドン底に陥る主人公を見て号泣しながらも、手は口にポップコーンを運んでいたりする。あくまでも「他人事としての一線」を保ち、泣く行為によって救いとしてのカタルシスを得る。そんな距離感が悲劇を娯楽として成り立たせている最大のポイントなのかも知れない。
その一方で、自ら悲劇を演じるスターたちは「他人事」とは言っていられないようだ。メソッド演技法というひとつの手法がある。まず、演技をする過程において担当する役柄について徹底的なリサーチを行う。そして、劇中で役柄に生じる感情や状況については、自身の経験や役柄がおかれた状況を擬似的に追体験し、演技プランを練っていくというもの。『波止場』で兄から銃を突きつけられ、なだめようとするマーロン・ブランドや、『エデンの東』で父親に泣きつくジェームズ・ディーンの演技がそれにあたるとされている。ポール・ニューマン、ダスティン・ホフマン、ロバート・デニーロらもメソッド演技法の系譜を次いでいる俳優。
ただしメソッド演技法に対する最大の批判として、自己の内面を掘り下げるため、役者自身に精神的な負担をかける点がある。アルコール中毒や薬物依存などのトラブルを抱えるケースも少なくなく、マリリン・モンローやモンゴメリー・クリフトは役作りに専念しすぎるあまり、自身のトラウマを掘り出し、以後の役者人生に深刻な影響を及ぼしたとも言われている。
「一線」の“こちら”側で我々が涙のカタルシスを堪能する一方、“あちら”側には俳優たちの他人事ではない“悲劇”が隠されているかも知れないと思うと、泣ける映画の違った泣き方が見えてくるかも。
こうやって読み返してみると自分でいろいろと反省がありますが・・・ 長くなってしまうので、添削結果は次のエントリーにてご紹介いたします。中々自分の文章にしっかりと赤を入れてくれるなんて体験は大人になってからでは中々出来ないので、新鮮だったし。とてもためになったのです。ということで、細々とお楽しみに。
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